mo_ch’s blog

消えたくなりながらも毎日を踏んで乗り越えるためにゲロを吐くブログ

ネットで人を攻撃することを

を(反復)ライフワークにしてる人が大嫌いなんだけども、今こうやって匿名で嫌いな人の特徴をあげつらって同じ穴の狢をやっている

おっかしーい


しかし何故何故何故敵意をぶつけることを初手にしてしまうんだろう 臆病すぎないか?

マウンティングと呼ばれる物事の亜種なんだと思うけど基本的にそれって本当に精神に余裕のある人ならばする必要のないことで、つまりみんな余裕ないのだな、余裕ないなら仕方ないな、みんなで溶鉱炉に沈んで楽になろう


でももしかしてそれって今を生きるためのあがきのひとつだったりするんだろうか


などと適当に考えて一周回っても、受けた傷のぶん心にあてがうためだとしても、傷の連鎖をつくるのは良くない気がする………………………………………逆回転させる方がいい気がする………………………………いいものをいいと言うことの方が……………………いいものをいいと言うことによっても案外快楽は得られるものだから




というのがたまたま今考えてたことだけど私にそんなことを言う権利があるのだろうか(完)




追記 

恒常的な心の安寧のため世界平和を望みます

偽悪者というのがおりまして

性別関係なくいると思うんですよ、

偽悪者という人たち。

自分自身がそうだからそう思うわけですが。


敢えてチョイ悪ぶる、敢えてマイナスのことを言う、敢えて…。


偽善者というのもありますが、

これは善人をしてやっかみの感情でそう言うことも多く、(本来の意味ではない使われ方だろうと思う)

特にそんな人の場合共同体に対しての影響って全体で見たらわりとプラスというかそこまでマイナスじゃないこと多いと思うんですね。(がんばろう!とか言ってるやつ)


どっちかというと偽悪者のほうが厄介で、ドン引かれてる自分(ok!)、みたいな性質持ってるので、士気を下げると思うんですね。

注意喚起をするとかじゃなくて、敢えて悪ぶってしまうやつだから、

本人にしたらそれがジョークのニュアンスを含んでも素直なマジョリティはマジでエッ!?となってしまう…

(犯罪者に同調したり←私の場合「無敵の人」系の孤独な気持ちを汲んでしまうのは年々ガチであるがそれを闇の少ない人に言ってしまうような状況が起きるとエッ怖!?になるであろう)


偽悪者やってると明るい人たちは遠ざかっていきより孤独を深めることになるんだよなあ…という(でもネット上とかだと特にやってしまうという)


なんで偽悪的になるのかというとこれは自虐に通じるハードル下げの一種なのだと思う。

自分から「自分は悪いことも想像しちゃいまーす」と言うことで、「お前悪いこと考えてるだろ!!!」と言われるのを先手で防いでるとかそう言うやつだと思う。

(本当は口に出さない限り誰もそんなことは言ってこないのだが想像した時点で誰かに心読まれてるんじゃ…と思ってたりとかする)

あとは自信ないときの虚勢としてなぜか悪の道に染まってる風を出したがる。なぜかそれを鎧に使おうとする。

身を守るためのウニの棘のように。

何から身を守りたいのかは本人もよくわかっていない。(本人が想像する)他人の感情とかそういうものか。


ここまで書いたら満足してしまったのでオチはない。

何が言いたい(何を言った)のかというと

偽悪者はいて

それは他者にマイナス感情を与えるのでやめた方がいいと思うが

そう思う私自身も偽悪者をやってしまう


ということ


ここからさらに何か言うことがあるとすれば、そのような状況からどのように脱するのか…ということであるが、

それはハードルが高くだらだら書き散らすに当たって楽ではないので、

もっと得意な人に任せる。

パッとしない人生に対する言い訳

生きた母親とまともな父親がいる家庭に育ちたかった

物心ついた直後に母親が死んだしマザコンだったのでおそらくその時点でもう耐えられていなかった


父親はいま心療内科にいったら何か見つかるであろう特性を持っていた

加えて昭和の価値観により暴力、癇癪を悪意なく行った


自分がパッとしないながらも器用貧乏の様相を呈している部分を見るに

きっと真っ当な育ち方をすれば、能力を伸ばそうと思ってくれる人がいれば、器用貧乏ではなくオールラウンダーになれたのだと思う


でも無理もう無理頑張れません

寿命の数だけパッとしない毎日が繰り返されるんだなあと思うと哀しみ

才能がある人や環境に恵まれた人を妬んで生きていくんだ………………………………………………………………………………

訃報を聞くのが趣味

怠惰に打ち勝つ感情がないため自分が一番やりたいことが消滅することなのだが

諸事情からそれを我慢して、

次点の欲望から消化して行ってるから訃報聞くのが趣味 特に同年代の自殺は成功してよかったねえ…というあたたかい気持ちになる


それはさておき

「死にたいって言ってる奴はさっさと死ねよ」と(おそらく若干ムキになって)言う人、あれが気になる

「やりたいことはすべて実現されるべきである」という考えのもと、

「万引きしたい」と言う人に対しても「やりたいんならやれよ」というスタンスである可能性もあるが、おそらく違う

何故か、何故か死を望む言葉を口にする相手に対してだけ「やれよ」と言うわけなのだ

ここに得てして「死にたいって言ってるのが腹立つから(→死ねよ)」という文言が付随しがちだとみているが、

一体なぜ死を望む人間をみると、特別に腹が立ってしまうのだろうか


やはり望んでいるのが死であるからではなく

「それをしたいと言いながら実行しないこと」に腹を立てているのだろうか

とすれば「死にたい」と言う人に腹をたてる人は、

「人を殺したい」と言いながら実行しない人にも腹を立てるのだろうか


おそらく本人も自分がなぜそう思うのかわからないまま憤りを口にしているのだろうけれども、

その感情について分析して解説してほしい


私は自分がいなくなりたいので、人の死にたいに共感できるし、それでも死ねないにも共感する

だから、腹をたてる人のメカニズムがよく想像できない

日記

「この一杯のために生きている」

力のあるフレーズだ。

本当にそう発言した人の人生の目的が、

一杯の酒でなくとも、

勢いでそう言わしめるほどの、

一瞬の快感がそこにはあるのだろう。


私には酒が飲めないから、

それがわからない。

仕事終わりのビールを楽しみに、

困難を乗り越えるということができない。


代わりのものは、何かないか。

と、

思い、

周りを見渡すも……………

ない。


生きる目的にできるもの、

その場をやり過ごすだけの力を持ったもの、

どちらも私には、ないのだった。


ない割に、継続して人生をしている。

このことが、

いかにたくましくしぶとくあさましくあることか。

誇らしくとつけようと思ったが、やめた。

何がどうあっても私は私が生きていることを誇らしく見ない。

誰かがそう見たとして、私は見ない。


ただ、自分で思っているよりこんぶ一切れ分くらい、私は強いな。